親になるということ

昨日、母、姉家族とで祖母のお見舞いに行った。

もちろん、姉と一緒に甥っ子と姪っ子もいる。姉の旦那とは途中で合流した。

その過程で、子育てのたいへんさを痛感した。


・ 所構わずおもちゃ両手に奇声をあげながら、ダッシュする。上の子はだいぶしっかりしてきたが、下の子など歩いているだけで、転ぶんじゃないかハラハラした。
・ まだ午前中なのにもかかわらず、「お菓子を食べたい」とダダをこねる。
・ ちょっと前まで「お絵描きしたい」と言っていたかと思うと、「外に出たい」と言い出す。
・ 自分が理解、納得できないことがあると、「なんで?」をとにかく繰り返す。
・ 自分がやりたくないこと、自分に都合の悪いことには、すべて「やだ!」という返答。
・ 姉の旦那が、祖母から子どもへのお小遣いを預かる際に、「お父さんにおもちゃ買ってもらいな」と言われたことを覚えており、「ばあばが(自分に)おもちゃ買ってあげなって言ってたよ!」と連呼。
・ 車中、笛状の音が鳴るおもちゃを大音量で遊ぶ。
・ 鼻をほじった指であっちこっち触る。
・ ご飯を手でつかんで食べる。しかも、ご飯をつかんだ手で自分の服を触る。
・ 仕方のないことだが、下の子はあちこちによだれを垂らす。
・ 手で口を塞がずにくしゃみをするので、大量の唾液が周囲に飛ぶ。

等々

上記のことに対して、姉とその旦那は、時になだめ、叱り、ほめ、要望に応え、汚れを取り、柔軟に対応している(驚異的である)。

とにかくかわいい2人だが、流石に上記のようなことが繰り返されると、げんなりするし、疲れてしまう。2人の行動のなかには、いくら子どもとはいえ、ちょっと汚いなあと感じてしまう瞬間もあった。

独身の人間ならば、ある程度、自分の身だしなみにも気を遣い、こじゃれた格好をすることもできるだろう。

親になるということは、外にもう一人の「自分」をもつということなのではないだろうか。しかも、その存在は自分以上に不安定で、愛おしい存在だ。

なので、親になると、かなりの体力と根気、柔軟性が要求され、視野を広く持つことにエネルギーが割かれる。意識の方向が自分に向くなんてことは、たぶんあんまりないんじゃないか。

子どもがかわいくて、自分のことなど二の次になる。

だから、自分の服が子どもたちに引っ張られ、よれよれになってしまおうが、よだれでシミができてしまおうが、ご飯つぶがついていようが気にならない。そんなことは些末なことだし、いちいち気にしてもいられない。親は子どもに夢中なのだ。

潔癖症かつ、人の目を過剰に気にしてしまう僕にとっては、もしも親になったら、そういう自分(自意識)を捨てることが第一歩なんじゃないかと思った。まあ、自分の子どもだったら、かわいくてそんなことまったく気にならなくなりそうだけど。

そういうことが親になるということなんじゃないかと感じた1日だった。


追記
このような体験をした後のせいか、外出して、子ども連れの親子を見ても寛容な気持ちになれたような気がする。